秩父屋台囃子振興会

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秩父屋台囃子の起源

秩父屋台囃子は一体いつ頃から演奏されるようになったのでしょうか? 以下は参考文献による抜粋です。

威勢のいい江戸囃子、親しみやすい佐原囃子、テンポの早い野州囃子、祇園風の三手古囃子など、関東各地の祭り囃子は、どれも流暢で洗練されたものばかり。
しかし、一歩秩父に足を踏み入れると、全く趣の違う勇壮な秩父屋台囃子に遭遇する。
一般には、秩父屋台囃子だけは他のお囃子とは一線を画し、独自に生まれ・独自の進化を遂げてきたお囃子のように思われる。
しかし、専門家の見解は異なるようである。
秩父屋台囃子研究の権威である中村知夫氏は「江戸歌舞伎の下座音楽」が秩父に持ち込まれたものとしている。
また、江戸囃子研究の権威で、江戸型山車にも造詣の深い田中興平氏は「江戸囃子系の祭り囃子を伝承している」としている。
他の研究者の多くも江戸囃子との関連性を指摘している。

江戸時代、秩父は行田の忍藩に属していた。
忍藩では、毎年秩父夜祭に際して藩主の名代を派遣し、お旅所付近桟敷席で上覧させる一方、地元行田での華美な祭礼行事を禁止した。つまり、秩父夜祭は忍藩にとっての公式の祭礼だったのである。
秩父夜祭の起源は江戸時代以前だが、江戸初期、秩父が忍藩領になると、藩によって、藩の公式祭礼にふさわしい姿に再編整備されたと考えられ、そのときに、中心地江戸の天下祭りにならった姿になったのだろう。
その後、屋台や笠鉾が造られるにあたっても、先進地江戸の屋台や山車の形式が取り入れられた。
後年、寛政改革で屋台が禁止されたとき、藩主導で復興の嘆願が行われている。
秩父夜祭と忍藩との結びつきを示すエピソードである。

これらのことから、秩父屋台囃子は、屋台や笠鉾とともに、江戸から導入されたと考えるのが自然な結論であろう。
屋台の指導者として、結城文右衛門と八郎左衛門が来秩したことは知られているが、同様に江戸囃子の指導者も招かれたのかもしれない。
屋台ができてもお囃子がなくては、祭りは盛り上がらないものである。
屋台創建と時を同じくして、江戸風の秩父屋台囃子原初形態も誕生した。
その後、長い年月をかけて徐々に秩父特有の叩き方に変化していったが、その大きな画期となったのがだんご坂といわれている。
秩父鉄道の建設に伴い、大正の初め頃から屋台、笠鉾はだんご坂を登るようになった。
これにより、それまでの流暢なお囃子から大太鼓をメインとする勇壮なお囃子へと変わっていったのである。
                                  (参考文献/さきたま出版会「秩父夜祭」より抜粋)

近代の秩父屋台囃子

現在のような「テケテッケ」の拍子に乗せて打つ屋台囃子になったのは、昭和30年頃からです。
それ以前の屋台囃子の拍子は「テッケ・テッケ・テッケ・テッケ」と2拍子のかなり早いリズムで打たれていたそうで、玉入れもなかったようです。
数百年の歴史を持つとされるお囃子も、昭和20年代頃は山車を所持する各町会がそれぞれ我流に演奏し、太鼓はただ叩き続けるだけで、笛・鉦・太鼓がぜんぜん合ってなかったといわれています。
転機となったのは、昭和29年に故・高野右吉氏(明治35年~昭和58年)を中心とするメンバーが「全関東祭り囃子コンクール」に出場して優勝し、「高松宮杯」を受賞しました。このとき、高野右吉氏は高い個人評価が認められ「特別技能賞」を受けました。
そして、翌昭和30年には、無形文化財「秩父屋台囃子」保持者として、高野右吉氏は埼玉県より認定を受けました。
これをキッカケに秩父市教育委員会は郷土芸能の重要性を認識し、高野右吉氏に秩父屋台囃子の普及啓発を託しました。
そして高野右吉氏は現在の屋台囃子の原形を作り上げ、各町会の打ち手を招いて公民館で合宿し、奏法を教えたとのことです。
玉入れも高野右吉氏が考案したようです。
秩父屋台囃子の太鼓が左手主導なのも、高野右吉氏が左利きだったせいといわれています。